2016年10月9日日曜日

届かなかったTwitterでのSOS、なぜ?

先日、パワハラ混じりの過労死により夢と希望にあふれた尊い人命が失われた残念で痛ましい事件がありました。

しかも、日本を代表するエリート集団の中で行われていたことも大きな驚きでした。

また、昨日あたりから亡くなられた方が発したTwitterが流れてきました。

なぜ、このツイートを フォローしていたはずの友人・知人が事態を止められなかったのかと思う反面、このツイートの読み方は非常に難しいと思いました。

彼女のツイートに苦しみの吐露と同時に抑制の効いた自己韜晦や諧謔の装いを感じてしまうことです。
  • 自己韜晦 = 自身の才能や地位、本心など隠して表に出さないこと
事件の結末を知っていればこそ、ツイートに潜んだギリギリの絶望感が伝わってくるけれど、現在進行形の中にあっては、切々と苦しみを訴えながらも、なんとか社会の荒波に耐えて行こうという姿勢も感じる部分もあります。

多数のツイートを一時に読むのなら別ですが、受ける側は、毎日、多くのツイートやLINEをフォローしているはずなので、何日か前のツイートと強く関連づけて読まなかったとしても無理はないと思う。
 
また、普段のツイートがどのようなトーンなのかわかりませんが、受ける側もTwitterの性格上、ちょっとキツいジョークのように受け取ったとしても不思議ではなく、これほど深刻な状態が潜んでいることを見抜けなかったのだと思います。

一方で、発信者側の彼女はツイートすることで、寸時の発露を覚えるだけで、次第に孤独と絶望に追い詰められていったような気がします。

もし、これがTwitterではなくメールで送られたとしたら、もっと別の展開になっていたような気がします。けれど、ツイートしていることと同じことをフォローしてくれている友人にメールすることは普通はしないので、ツイートという手段があったところに不幸があったように思います。

手軽さの反面、発信者と受信者の意識レベルの差は埋めようにないです。

結局、彼女は何に頼れば良かったのだろう?

SNSではなく、アナログな相談だったと思う。

もしかしたら、SNSのネット社会が、救えるはずの命を、その利便性ゆえに救えなくしてしまったのかも知れないと思いました。
  
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